荘厳な金冠、勾玉

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 さて、世界遺産の仏国寺や石窟庵については前回までに紹介しましたが、今回は古墳から出土した標記の発掘物について紹介しましょう(位置関係図を参照)
図
【史跡の概略位置】
 仏国寺から少し離れますが、慶州には国立の慶州博物館があります。ここは新羅の王宮跡(月城と雁鴨池、新羅の王陵が密集した大陵苑、新羅の大伽藍だった皇龍寺址など)に隣接して建てられた施設で、全部で4つの建物(考古館、美術館、特別展示舘、雁鴨池舘)と屋外展示場があり各種の古代の遺物が展示されています。木簡や石の半跏思惟像、古代の剣や馬具などもありますが、何といっても圧巻は考古舘に展示されている“金冠”でした(館内は写真撮影禁止ですので博物館のホームページからの写真を掲載します)。
金冠 金冠2
【金冠塚出土】 【天馬塚出土】
これらは5世紀から6世紀のものだそうですが、この展示品に気づいた時には、デザインといい、勾玉の数といい、これが古代の出土品!?というぐらいのショックがありました。また近くに展示されている“冠装飾”にしても実に斬新な形をしており、今にも鳥が飛び立ちそうな勢いがあります。
冠装飾
【天馬塚出土の冠装飾】
 新羅は金が多く産出したと以前紹介しましたが、これらの金冠は漢字の「出」という文字に似たデザインが特徴的です。統一新羅は中国の唐の影響を強く受けていますが、この「出」型のデザインは古代中国から伝わったものではなく、遼東地方にいた鮮卑族(烏桓)から高句麗を経て新羅で開花したものだとか。従って、北方騎馬民族の影響を強く受けたものと言えるでしょう。また高句麗や渤海などが他国に使者を送った時の図をみますと使者と思われる人物の頭に鳥の羽が描かれているケースを見かけます。鳥についても何か思い入れがあるのでしょうか?それにしても金冠や冠装飾は、“すばらしい”の一語に尽きます。さすがに新羅は金の国というべきでしょうか?
 これらの発掘物は、主に金冠塚や天馬塚から出土しています。またこの金冠には多くのヒスイの勾玉がついていますが、韓国内にはヒスイの産地は無く、ヒスイの勾玉は新潟県の糸魚川周辺産のものとされています(この点は特に展示説明されていませんでしたが・・?)。ちなみに、金冠塚と天馬塚出土の金冠には各々58個の勾玉が使用されており、かぶって動くと音がしたはずです(チャリ~ン、チャリーン?)。
 この日本製の勾玉は、金冠以外にも金製帯装飾具、頸飾り、垂下飾りなどにも用いられ、古くから日本と韓国間の交易品だったようです。3世紀には金海・釜山地域、4世紀まで伽耶地域に分布し、5世紀には新羅地域、6世紀には百済地域へとヒスイの勾玉の分布範囲が移動しているとの事。まさに日韓の交易窓口の変化に良く対応した分布をしているようです。従来、新羅と日本とは常に敵対関係にあったと考えられていましたが、5世紀前半に高句麗の広開土王が南進した事で伽耶、特に金管伽耶が衰退し、代わりに新羅と日本の交易が活発になり、勾玉の輸出先変化以外にも重要な素材、鉄の輸入元も金海から新羅へと変化したと言われています。金冠等は丁度この時期に対応したものと思われます。
 但し、6世紀には百済が高句麗に押されて南に遷都し、大伽耶を占領したり、日本で継体朝と百済の本格的交易が始まり、百済滅亡までこの関係が続きます。また6世紀後半当たりからは大陸での政治情勢の変化から百済一辺倒の日本外交の見直しが始まり、新羅との交易も回復してきたようです。金冠1つとっても政治情勢と関連しているのが歴史の面白い所です。
 所で、この金冠の1つが出土した天馬塚は博物館から直ぐにいける大陵苑内にあり、ここも行ってきました。(写真)
大陵苑  大陵苑古墳
【大陵苑入口】     【大陵苑内の古墳】
 大陵苑は大小30個の古墳(すべて円墳です)がある公園で、天馬塚内が見学出来るようになっています。この内部を見学して一寸驚きました。ここで展示されている石室内部の状況が、素人考えかもしれませんが、埼玉県の将軍山古墳の石室内と非常に似ていたのです。天馬塚は5世紀末から6世紀、将軍山古墳は6世紀後半に作られたと推定されてり、若干時期がずれていますが、敷石の上に木棺を置いた様子といい、副葬品の置き方といい同じような感じを受けました。家内も同じ印象を受けたようで思わず顔を見合わせてしまいました。天馬塚は円墳、将軍山古墳は前方後円墳という違いはあるのですが、何らかの交流があったのではと思わせる展示でした。ちなみに将軍山古墳からの出土品には蛇行状鉄器(馬の鞍に旗指物を装着する器具)馬冑(ばちゅう:馬の兜)など日本にはあまり例が無く、朝鮮半島との交流を思わせるものが出土しています(将軍山古墳はあの鉄剣で有名は稲荷山古墳の直ぐ近くにあります)。調べてみますと「加耶と倭」(朴天秀、講談社)という書籍には、“稲荷山古墳から大伽耶産の金銅製装身具と馬具、鉄製武器・武具が、将軍山古墳からは新羅産馬具と銅鋺が出現している”、と記してありました。将軍山古墳は6世紀後半ですので、この記述が正しいとすれば、百済一辺倒の関係が見直された時期に相当します。従って新羅系の副葬品があるのは不思議ではない事になります。また将軍塚古墳の石室は横穴式です。伽耶文化圏では当初ほとんどの古墳が竪穴式であったようです。一方、百済では当初、高句麗と同じく方形積石塚であったものが、4世紀末から5世紀初頭に横穴式に変化したようです。また横穴式が日本に伝来したのは4~5世紀(5~6世紀という説もあります)といわれ、楽浪・帯方郡の滅亡と高句麗の南下による日本への人の移動・移住が契機であったとか(丁度、伽耶地域の衰退と時期が同じです)。従って6世紀後半の将軍塚古墳が横穴式であるのもうなずけますが、実は日本の古墳は新羅の影響はうけなかったようで、我々の印象は勘違いだったようです。古新羅の古墳はシベリアのスキタイ古墳と共通する積石木槨墳の内部構造をもち、封土を置く前に棺槨を地中深く構築し、封土をその上に10m以上かけたものとの事です。補足ですが、稲荷山古墳は5世紀末から6世紀のものですが、竪穴式です。丁度、横穴式が日本に伝わる少し前に作られたのかもしれません。
 古墳構造は別にしても、従来、日本では百済や伽耶のみとの文化交流が注目されていましたが、発掘された副葬品などを見る限り、新羅との交流も着実に行われていたという感じが致します。我々は日本書記の記述内容に影響され過ぎていたのかもしれません。
 また、ヒスイの勾玉ですが、これは新羅や百済との重要な交易品だったものの、高句麗からはこのヒスイ製勾玉は出土していないようです。所で、慶州博物館や天馬塚で展示されている展示品につけられている勾玉ですが、多くの勾玉の“頭部”赤丸部分に数本の横溝がつけられている事に気がつきました。
勾玉
【翡翠の勾玉】
 日本の勾玉には今までこのような溝を見た覚えがありません。勾玉については胎児をかたどったという説や動物の牙の形をかたどったという説などがあり、結論が出ていませんが、この溝は何のためにあるのでしょうか?資料を探しましたが、これを説明した資料は無いようです。そこで、素人考えですが、朝鮮半島では騎馬民族の伝統を引き継いでいるために溝ができたという解釈もできるのでは、と思ってしまいました。
 「日本では狩猟ではなく、採集や農耕が主体のために溝はもともと不要であった(もともと胎児ではなく他の形をかたどったものが起源である)。一方、狩猟主体の生活をする場合には、獲物解体時に胎児を見る機会が多く、形を似せ、何らかの生命の力を受け継ぐために、後で溝がいれられた。」とも解釈できるのではないでしょうか?。まあ素人の勝手な判断ですが、如何でしょうか?こんな事が考えられるから歴史は面白いのですが・・・。
 それにしても金冠や冠装飾といい勾玉といい、今回の旅は今までにない知的興奮がありました。また古墳も面白かった。日本の歴史などを知らないとあまりこのような面白さは分かってもらえないかもしれませんが、外交も歴史も、昔から海外とは無縁のものではなく、常にグローバルに見る必要があるようです。
 さて、最後ですが、全体を通して今回の旅の感想を言えば、“展示等に関して若干歴史的な説明が不足している”事、“特に日韓関係に関して”、を感じました。せっかくの文化財をどのように説明をするか、という点で課題が多いように感じます。韓国国内向けの一方的な見方ではなく、冷静に、事実をもとに十分な説明を行う必要があるようです。一部の現地ガイドの方は気遣われて説明していますが、我々日本人も気づいた時にはきちんと異論を言うべきなのでしょう。この点を除けば、大変面白く、非常に満足した旅でした。また、個人的にも新羅に対する印象が大分変わった気が致します。
 なお余談ですが、今回ガイドをしてくれた方は、伽耶の初代王、金海キム氏の始祖であるキム・スロの76代目の直系子孫との事でした。リップサービス?真偽は分かりませんが、なにやら、まだまだ歴史にはまり込みそうです。
 また、追加情報ですが、以前報告した海印寺は、高麗八萬大蔵教を印刷した大量の版木(桜や白樺製)を所有している事で有名ですが、保存のため、版を銅化する作業が現在行われているようです。ちなみに海印寺は慶州から車で2時間、釜山からは5時間かかるとの事で、行かれる場合には慶州が近いようです。私も行きたかったのですが、時間的に無理でした。
( 注:勾玉についての上記記事については、ここで補足しています。ご参照ください。)
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